郡司泰久のサブカルチャー・パラダイス

鎌倉サブカルチャー研究会会長の郡司です。皆さん、コミュニケーションしましょう!

発狂するような描写

携帯小説ラノベでは、会話とストーリーテリングだけがあって、丸っきり描写が欠けているものがほとんどです。きっと今の読み手は描写があるとイライラして、すっ飛ばしたくなるのでしょう。かろうじて心理描写だけが許されるようです。これは、描写に魂を込めている作家には、地獄でしょう。たとえば、三島由紀夫です。あの方は、自分の小説では風景描写が恋愛小説における会話と同じぐらい重要だと公言しています。私もその影響下にありますなぁ。けれども、最近、私は、佐々木中(あたる)という学者の小説を発見しました。それは、まるで、描写しかないプロットもエンディングも形容詞で埋め尽くされた頑強な吹っ飛んだ作品です。文学の可能性って、これしか無いと私はいきり立ちました。皆さん、ご存知ですか。

ラノベと純文学の自由について

何を書いても自由、作文の文法をいくら無視してもかまわない凶暴な小説を常々、求めてきました。本当に自分の書きたいことだけを書いている作家は、どれだけいるでしょうか。純文学では、丸山健二氏、中原昌也氏が思い浮かびますが、主流から外れているのかもしれません。でも、自分の作品がどの流派に属するなんて、彼らは気にしているでしょうか。この我意を押し通していくと、ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」のような破天荒すぎる暗号のような作品を書くことになってしまうのかもしれません。これをどのくらいの人が読むのか、そら恐ろしい気がします。さて、ラノベですが、このジャンルで何を書いてもいいとうそぶく作家もいるのには、驚いてしまいます。自分らしさやオリジナリティは好きなことを書くことで表現できるのでしょうか。文学は無意味な統合失調症の錯文に終わるのでしょうか。思い悩む日々です。